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南北朝時代における天皇家  その2

| 歴史・宗教編 | 2019年10月25日 |

 三種の神器とは八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、日本の歴代天皇が継承してきた天皇の権威そのものと考えられています。しかし壇ノ浦で八咫鏡と八尺瓊勾玉は発見されましたが、草薙剣は行方不明になったままでした。

 ここで後白河法皇は1192年に亡くなり、「治天の君」の座は後鳥羽天皇が成長するとともに引き継ぐようになりますが、常に三種の神器なしで即位したというコンプレックスがあったようで、何かと強引な政治を行うようになります。

 後鳥羽天皇は1198年に皇子の土御門天皇に譲位すると、1210年に順徳天皇(土御門天皇の異母弟)、1221年に仲恭天皇(順徳天皇の皇子)を即位させ、上皇として3代23年間にわたり院政を敷きます。

 ところで行方不明になっていた草薙剣はどうしたのかというと、1210年に順徳天皇が即位するときに、後白河法皇が存命中に伊勢神宮に奉納していた別の剣を草薙剣とみなすことにして現在に至ります。正確に言うと現在皇居にある三種の神器は形代(かたしろ、レプリカとも違うものです)で、実物の三種の神器は天皇もご覧になれないものだそうです。

 ここで大変に畏れ多い余談ですが、この三種の神器は国税庁によると天皇家の私有財産で相続税や贈与税の対象となるそうです。さすがに天皇が薨去されると相続税の対象からは免除されていますが、今回は今上天皇が生前譲位されているため贈与税の対象となります。しかしこれもさすがに特例で免除となるようです。

 話を戻しますが、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開きます。なぜ1192年かというと、この年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたからですが、この征夷大将軍とは蝦夷征伐のために臨時で設置される官職で、特別に高い位ではありません。つまり当時の天皇家は「たかが武士の親玉などこれくらいの官職で十分」と考えていたはずです。

また当時の「治天の君」である後白河法皇は最後まで源頼朝の征夷大将軍を認めず、後白河法皇が1192年に亡くなってようやく関白の九条兼実が任命しました。当時の後鳥羽天皇はまだ12歳でしたが、成長するとともに鎌倉幕府をコントロールしようとします。

 鎌倉幕府は源頼朝の死後、将軍の地位は長男の源頼家、次いで次男の源実朝に引き継がれますが、頼家の時代の1203年に早くも頼朝の正室・政子の実父である北条時政が初代執権となり幕府の実権を握ります。

 北条家はもともと伊豆地方の豪族で、北条時政は平治の乱(1160年)で敗れて伊豆地方に流されていた頼朝の監視役でした。その時政の娘の政子が頼朝の正室となったため北条家が勢力を拡大し、頼朝の死後は執権として鎌倉幕府を牛耳ったとされていますが、実際はその逆で北条氏が源氏のほとんど唯一の生き残りである頼朝を旗頭として有力武将を集めて鎌倉幕府を「作らせた」といった方が正確です。

 頼朝本人も「凡庸」で自身の実績はほとんどなく、ただ担がれていただけです。またその長男で2代将軍の頼家、さらに次男で3代将軍の実朝も「輪をかけて凡庸」でした。頼家は北条時政が初代執権となるとすぐに将軍の座を追放されて幽閉謀殺され、次の実朝は1219年に時政の息子・義時(2代目執権・政子の実弟)にそそのかされた頼家の子・公暁に暗殺され、源家の血筋は完全に途絶えてしまいました。

 ついでに言うと頼朝まで死因がはっきりせず、北条氏に暗殺された可能性まであります。北条氏にとって、頼朝を旗頭に有力武将を集めて鎌倉幕府が出来上がってしまえば、その時点で頼朝は「用済み」であり、その後を継いだ頼家、実朝などは「ほんの付け足し」だったことになります。源家の3代の将軍は北条氏に「すべて」消されてしまったはずです。

 ところで後鳥羽上皇はこの実朝を取り込んで鎌倉幕府も支配しようとしており、子供のいない実朝の後継に天皇家から皇子を将軍に就けようと考えていました。ところが実朝が暗殺され、鎌倉幕府の実権が北条家に乗っ取られてしまったため、まずこの北条家を排除しようと考えます。

 ここで横道にそれますが、北条氏の執権は時政(政子の実父)を初代に1333年まで16代・130年にわたって続きます。ここで頼朝まで北条氏の傀儡将軍だったとすれば、そもそも1192年から1333年まで141年続いた鎌倉幕府とは「そっくり」北条幕府だったことになります。

 北条氏のこの16代の執権とは(鎌倉幕府=北条氏が滅びる1日前に北条貞将(さだゆき)が17代執権となっていたとの説もありますが、不確定なのでここでは無視します)、室町幕府の将軍の16代・15名(第10代将軍の足利義材が第12代将軍の足利義植でもあるから)、江戸幕府の将軍の15代と比べても、時代が少し短いとはいえ遜色がありません。また16名の執権は、9代・貞時の晩年を除いて「出来損ない」がいなかったところも、室町幕府や江戸幕府と大きく違うところです。

 じゃあなぜこの時代を北条幕府と呼ばないのかというと、足利氏も徳川氏も形式的ではあるものの第56代・清和天皇(在位858~876年)に末裔であることにされていますが、北条氏はさらに身分の低い「ただの家来」だったからと思われます。天皇(朝廷)も征夷大将軍に任命するには「ある程度の身分」が必要だったことになります。さらにこの後に出てくる北条氏の天皇家に対する扱いが余りにも横暴だったこともありますが、その天皇家もその後は何かと北条家を頼るようなります。

 話を戻します。この北条氏を排除しようと考えた後鳥羽上皇は1221年、時の執権・北条義時追討の院宣を出します。もちろん天皇家(朝廷)や公家は直接戦わないため、主に京に近い有力武家を動員しますが、たった2か月で鎌倉幕府の(北条家の)軍勢に大敗してしまいました。これが承久の変で、ここで天皇家と鎌倉幕府(北条家のことです)の力関係が完全に逆転してしまいました。

そして19万もの大軍を率いて上洛した北条泰時(義時の長男、後の執権)と時房(義時の異母弟)によって、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、承久の変に直接関与していなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に配流となり、また即位したばかりの仲恭天皇も退位となりました。

 また北条泰時と時房は、後鳥羽上皇に加担した公家や武家の所領を没収して御家人に恩賞として配分し、六波羅探題を設置して天皇家、公家、さらに西国の武家を監視します。この探題とは役職名で六波羅(平清盛の屋敷跡)の南北2か所に常駐する警備責任者で、そのまま泰時と時房が任命されました。

 その次の天皇には、後鳥羽上皇の異母兄で安徳天皇とともに西国に連れ出された後、壇ノ浦で救出されていた守貞親王の皇子である後堀河天皇が10歳で即位し、天皇経験のない守貞親王(後高倉院)が院政を敷くことになりました。ここでも承久の変に関係のなかった血統から天皇を選ぶようにとの北条家の圧力があったはずです。

 隠岐に配流となった後鳥羽上皇はその地で1239年に亡くなります。そこでも後堀河天皇の皇子で1132年に2歳で即位していた四条天皇が1142年に事故死(転倒)しており、後鳥羽上皇の怨念だといわれています。

 また後鳥羽上皇は歴代皇族では最高の歌人とされており、また武芸・学問にも優れた「才能あふれる天皇(上皇)」でした。

 さて12歳で亡くなった四条天皇には当然に皇子がおらず、父親である後高倉院の血統にも皇位継承できる皇子がおらず、やむなく遡って後鳥羽上皇の血統から次の天皇を選ぶことになりますが、当然に執権となっていた北条泰時が口を挟みます。

 後鳥羽上皇の血統では同じく配流となった土御門上皇と順徳上皇のそれぞれ皇子がいましたが、北条泰時は当然に承久の変に積極的に関与した順徳上皇の皇子は認めず、関与していなかった土御門上皇の皇子が即位して後嵯峨天皇となります。1242年のことでした。

 そしてこの後嵯峨天皇が、後に南北朝時代となる「きっかけ」となります。後嵯峨天皇はこの時代には珍しい22歳での即位となりましたが、父親の土御門上皇が配流となった後は母親の親戚を頼っていたものの生活は苦しく、元服もできていませんでした。

 そんな後嵯峨天皇が突然に天皇となり、しかも鎌倉幕府(北条家)の後ろ盾も得て朝廷内でも勢力を拡大していきます。

 ところで北条氏が乗っ取った鎌倉幕府はどうなっていたのかというと、独自に朝廷に働きかけ承久の変の直前には五摂家から2歳の九条頼経を4代将軍として迎えていました。そして頼経が成人すると京へ追い返し、その子で6歳の九条頼嗣を5代将軍に据えます。もちろん将軍としての実権は何もなく、完全な北条家の「傀儡」となります。

 さて後嵯峨天皇は1246年に在位4年で皇子の後深草天皇に譲位して院政を敷きますが、なぜか1259年に弟の亀山天皇に強引に譲位させます。これまでも兄弟間の皇位継承はありましたが、普通は兄弟でも母親が違うもので、その母親(皇后や中宮)の実家を公平に扱う必要があったからです。

 しかし後深草天皇と亀山天皇は母親(中宮)が同じでこれに当てはまりません。単純に後嵯峨上皇は、体が弱くおとなしい後深草天皇より利発な亀山天皇が「かわいかった」だけとなりますが、これではさすがに正当な皇位継承の理由にはならず、後々「悪しき前例」となってしまいます。

 そして後嵯峨法皇(1268年に出家していた)は亀山天皇の次となる皇太子に亀山天皇の皇子を指名した直後の1272年に亡くなってしまいます。しかも亡くなる前に今後の皇位継承について、後ろ盾となっていた鎌倉幕府(北条家)に委ねていたため、ますます混乱することになります。

 とりあえず亀山天皇の皇子である後宇多天皇が1274年に8歳で即位しますが、ここにきてさすがにおとなしい後深草上皇が抵抗します。といっても自らの上皇返上と出家を申し出ただけですが、それでも自らの皇子を後宇多天皇の皇太子(後の伏見天皇)とすることに成功します。

 すでに「治天の君」は存在せず、皇位継承を委ねられた鎌倉幕府(北条家)も1274年と1281年の元寇でそれどころではなく、いよいよ後深草上皇(持明院統)と亀山上皇(大覚寺統)の対立、続いて天皇家が2つ並立する南北朝時代の始まりとなります。